競輪の結果をまとめるところ

レース番号レース種別 半周ラップ(一周ラップ) 1着決まり手 2着決まり手 3着決まり手 J選手着 H選手着 B選手着(上がり) 自分が使うときにまとめる。なんの責任もとりません。

静岡競輪場へ砂賀優徳を見に行ったこと

 年齢を重ねるごとに、酒量は確実に増えている。そしてそれに比例するように、眠りは浅く、短くなっているようだ。一週間の労働を終えた金曜日、缶チューハイとウィスキーをいい加減に飲み出して、最後に覚えている時刻が11時過ぎ。気付いた時には、朝の4時半となっていた。

 不思議なもので、こうなると二度寝するのも難しい。そこで、どうせならばと昨晩の思いつきを実行に移すことにした。不精不精な身支度を済ませ、歩いて5分ばかりの最寄り駅から電車に乗り込む。中川で、朝焼けに影を落とす首都高上のトラックが美しい。東京駅で東海道線に乗り換えると、明るくなった大都会の中を西へ。国府津で海が見えるとようやく一息、小田原を過ぎ根府川あたりになるとトンネルの合間合間に海際の漁村が点々と続く。湯河原から長いトンネルを抜けると熱海であり、そこからもう少し囂々と続けば、関八州から伊豆を抜け駿河の国に辿りいたことになる。そのまま1時間ばかり座っていると、静岡駅はもうすぐである。「駿府ダービー」で名高い、かの静岡競輪場もここからバスで10分の距離。本日は平開催「しずまえカップ」の2日目、併売が佐世保の開設記念3日目だ。そして第2競走のチャレンジ一般戦には、砂賀優徳選手(埼玉・109期)も出走予定であった。

 思えば五ヶ月前、新人選手のデビューとなった7月1日。地元・千葉競輪場でのデビュー選手くらいは見てやらにゃと昼休み12時ジャストに中継を開いたところを、新人とは思えない弱さでバックまで持たず垂れていった砂賀の姿は衝撃的だった。……もっとも、この文を書くに当たって再度ビデオを見直したのだが、今から思えば当時72点持っていた米倉剛志(千葉・89期)と外併走で踏みあってそこそこもっているのだから、その後の砂賀の走りを思えば大健闘であったのかもしれない。

 いくら競輪界の入り口と出口、三班チャレンジ戦士とはいえ、ちょっと気を抜けばすぐに業界から叩き出されるのだから、手を抜いているような選手は(あまり)いない。砂賀はその後も力が及ばないまま、7着を量産し続ける。一度8月頭に前橋の負け戦で6着になり―余談だが、この競走を私は生で観戦している―、9月には弥彦で4着に入ったがこれは三車落車があったためなので実質的には最下位である。後ろの選手も前が動けないと見るやすぐに切り替え、そうなるとますます動けなくなっていく悪循環だ。あげくには、同県の先輩にすら着けてもらえなくなってしまった。

 こうなると、もう自在宣言で流れ込み狙いの切れ目から……という競走の方が、まだ点数と小銭稼ぎは安定する。だが、砂賀は「単騎でも自力」というコメントを出し続けた。肝心の競走では少し踏み出してはすぐ後ろへ……というレースばかりで、悲壮だとか悲哀だのを越えて、彼の精神力に恐怖さえ覚えたものである。こうなると、どうせ垂れるにせよあと一車分くらいは捲れないか、あわせて踏み出してからせめて3秒は併走できないか、というような気分になってくる。車券には難しいにしろ、頑張って欲しい、なんとか1勝を、というわけで、秋ごろにはすっかり砂賀のファンになってしまった。10月16日の函館で必死に追い込み4着に入ると、競走ぶりもまとまってそれなりに見れるようになってきた。

 静岡競輪場は、集客力の高い競輪場として知られている。この日も、記念の併売があったにせよ入場者数は3000人を越えていた。ここは久々に埼京ラインの三車連携、しかも純粋な自力屋は砂賀一人だけなので、脚見せからそこそこ声援が飛ぶ。自分が残るのは無理にせよ、しっかり踏み出して後ろを引き出せというわけだ。

 締め切り5分前から音楽が流れ、最後の1分でオッズ表示が人気順だけになる。JKAの係員が、銀輪に跨り配置についた。さて、いよいよレースが始まる。選手は発走台につき、クリップバンドを留めると上半身をあれこれ伸ばしたり引いたり。審判員が簡単な訓辞をかけるが、それ以上に客からの声が大きい。頑張れよと声を投げた砂賀の表情は、競走用グラスに隠れてわからなかった。

 ここでは、本命の山崎明寛(千葉・81期)にしたって、本式の自力で踏む気はない。砂賀が駆けたところでなるべく前目に付けておき、捲り追い込みをかける算段だろう。とすれば砂賀は仕掛けを自由に決められるわけなのだが、果たして赤板からじわりと前へ。抑え抑えで後ろを気にしつつジャンを聞き、最終ホームあたりから踏み出した。おお、ちゃんと先行屋ができている、踏めーと叫んで感動したのもつかの間のこと。二角出口ではもう山崎に捕まり、さらにはライン3番手の中川昌久(茨城・94期)もあわせて交わしにかかった。デビュー以来4回目の最終バックは記録できたが、もうそこまで。番手の長谷井浩二(東京・45期)は内で狭い感じになるもなんとか踏み直して、山崎→中川→長谷井で入線。懸命に粘ろうとした砂賀は最後直線で交わされ7着となった。 

 いつのまにか、強くなったものだなぁ。チャレンジ負け戦の最下位というのに、そういう感想になるから不思議といえば不思議である。こんな感慨を感じずに済むような強さになってくれればなと、つい上がりでの声かけは控えた。

 それからは名物のおでんを食べ、だらだら遊んでいるうちに全競走が終了。多少電車賃が浮くので、帰りは沼津行きの長距離送迎バスに乗ることにした。暗くなった車内で、ふと翌日の番組を確認する。3日目第1競走、A級チャレンジ一般戦。砂賀優徳の完全な自力一車、しかもラインは今日と同じく3車で折り合う。今日の走りを見る限り、これはひょっとするのではないか……私はそのまま旅行サイトを開くと、沼津駅前のビジネスホテルを予約した。

 翌朝、8割方席の埋まった静岡競輪行きの送迎バスに乗り込む。車内では、爺さんたちが今日の競走について話している。「若さには勝てんよ。佐世保の決勝は、若いやつだ。青だよ青」なにが若さだ、そりゃ新山響平(青森・107期)は若くて速い。だが、デビューした時点で若くなくとも頑張っているやつがいるのである。「地元の最初は7車じゃから、5レースまではこっち(佐世保)をやるかのぅ」なんと愚かな。競輪を60年(推定)もやって来て、この日の第1競走がどれだけ重大か理解できんというのか。

 そんな私の思いを証明するように、この日の第1競走は、脚見せからして異様な雰囲気だった。昨日も私を含め3・4人が砂賀に声をかけたが、この日は倍以上の人間が砂賀を応援しているではないか。いくら本命ラインとはいえ、本人自体は垂れること前提の人気構成なのに……全国に30人はいるだろう砂賀ファンが、この一戦に駆けつけたのか。さあ、昨日はいいレースだったぞ。今日は落ち着いていけ、レースはお前しか作れないんだから。私の車券は、砂賀絡みの三連単全90点計9600円。600円は、ラインの部分がガミになるので重めに買い足した部分である。

 号砲なり、スタートからSを取ったのは昨日に引き続き連携の長谷井。砂賀はゆったりと誘導員の後ろに招き入れられる。青板前、砂賀に声援。まだまだレースは動かない。当たり前だ。赤板を通過したが、砂賀は落ちついてる。向こう正面、いよいよジャンが鳴った。砂賀はそれでも動かない。どこまで、どこまで、いつ後ろが業を煮やして上がってくるのか。最終ホーム前、ゴール前の客が騒ぐ中、まだ誘導員は切られなかった。いいぞ、こうなったらそのままいけるところまでいっちまえ。ようやく二コーナーで誘導員が退避し、砂賀はそのままぐいぐい踏み出す。ちょっと前までは、このもがく姿勢も様になっていなかったもんだ。今日は別線となった中川がインから前へと踏み出したくらいのもので、ほぼほぼ大勢変わらぬままもうレースは第三コーナーへ。直線半ばあたりに陣取っていた私の前を、砂賀が先頭で駆けていく。そのっまま!だが、番手からぐいぐい踏み込んだ長谷井が、ゴール前で砂賀を交わした。3番手からの神山淳一(埼玉・74期)も追い込んできたが、なんとか振り切り2着で入線。デビューから5ヶ月余り、砂賀はようやく連帯を果たした。

 ゴール前に陣取っていた客の中から拍手が起きた。私も思わず手を叩く。なんたって、じつにめでたいじゃないか。おめでとうの声がかかる。よくやった、ありがとう。ラインが崩れていれば車券の配当が思い切りハネていたとか、そんなことは些細なことだ。わざわざ静岡くんだりまで来たんだ、損にならなかっただけであとはもう丸儲けだろう。

 荒み乱れた日常の中から逃れるにあたって、賭博に飛び込みドロドロと浮いたり沈んだり。まあ傍からみれば脳みそが足りない愚か者もいいところなのだろうけれど、ともあれ、バンクに走っている選手もまた同じ人間であり、苦しんでいる姿も努力した結果も全てさらけ出されてしまう。ことさら弱い選手に入れこんで応援する、というのは競技や賭博としては問題外の行いだろうが―今でも、倫理的にどうなのだろうという思いはある―、プロ野球など他のプロスポーツや、パチンコパチスロの類でなく競輪をやる意味というのは、あんがいこういうところにあるのかもしれない。

草競馬流浪記

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