【一場目】千葉競輪場
高校三年間は西千葉に通った。
だからついあのころの癖で、駅を出てすぐのロータリーを渡るのに、横断歩道を無視して横切る。お行儀がよろしくないことだ。そこから、左手に千葉大付属幼稚園、それから東京大学の研究所がある通りをまっすぐ進む。道路を挟んだ右手の並びは、おおよそ食い物屋が続いている。そういや、その昔は、蛸千なる盛りのよさが嬉しい粉もの屋があったはずだが。大きなのっぽの古時計のような妙ちくりんな外観をした、そのまま古時計なる名の喫茶店もちょっとした名物だった。たしか婆さんが店主だったが、今は影も形もありはしない。
交差点を渡り、自衛隊の地方協力本部の横を過ぎる。そのまま直進し、和菓子屋袖ヶ浦が正面に見えた交差点を右手へ。200mほど歩くと、駐車場を囲む絵の禿げた鋼板壁が見えてくる。千葉競輪場の入り口はもうすぐである。最初にこの場へ足を踏み入れてから、もう10年以上の月日が流れた。
人生に一度しかないらしい高校2年の夏は、端的にいって最低だった。学校には、三日に一度くらい休む旨の連絡を入れる。それで毎日行かないわけだが、といってやりたいことなど何もないので、だいたいこのころの有り余る時間はインターネットで頭が悪いアニメを観ることと、気が滅入るようなタイプの音楽をヘビーローテーションすることに費やされた。漫画と小説なども、少々は読んでいたように思う。五十嵐隆、小高芳太朗と滝本竜彦、あとは大槻ケンヂにカート・コバーン、モリッシーも当然リスペクトしなくちゃね、といった塩梅である。もう何もいわれなくなって久しかったが、それでも家に居づらくなると、適当に電車に乗り続け、カラオケボックスで一人歌って時間を潰した。
そうこうしているうちに1学期が終了し、いい加減馬鹿らしく、また学費こそ免除だったが修学旅行なる事案のゼニは払わなければならない。なので、ある晴れた日の夕方退学届を貰いにいった。すると、まあ当然なのだが夏休み中とはいえ部活や夏期補講があるのだから、同級生と出くわすではないか。「おい、大丈夫か。すげえやつれてるぞ」「まあ、ね」「どうしたんだ今日は」「退学届を貰おうと思って」そこからのやりとりは覚えていない。
そんな感じであったから、あの日なぜ高校から10分ほどの場所にある千葉競輪場を訪れる気になったのか。今となっては自分自身でもわからない。飛び石状に思い出されるあの日の千葉競輪場の情景は、あのころの他の毎日と同じように陰鬱だ。打ち棄てられた児童公園にでもありそうなモニュメント時計、千葉公園から聞こえてくる蝉の声、観客のまばらな灰色のスタンド、口数少ない客たち、すっかり曇ったアクリル板の向こう側で走る、ルーレットの珠みたいな選手たちの姿……
4コーナーのあたりだったと思うが、小汚い爺さんが壁に寄りかかるようにして座り込んでいた。入場料を払っているとはいえ、今でもあれはホームレスではなかったかと思う。彼と目があった。なぜだか立ち呆けてしまった。すると、なにか声をかけてくる。とくに暴言の類ではなかった。数言のやりとりがあり、最後の言葉だけは覚えている。「兄ちゃん、頑張り過ぎんなよ」。笑ってしまうね。
それから、私はダラダラと時間を引き延ばしたが、まあ逃げるだけで勝てるのは絶対的な強者だけだ。進級が危うくなりそうな9月末に教室へと戻った。それからの話は不要であるからここでは省こう。書くべきは、千葉競輪場についてのことだろう。
千葉競輪場は、たしかに寂れた場である。施設の古さも否めない。だが、全てがくたびれているけれど、それは決して惨めったらしいものではない。500バンクの長い直線は加速がつくので、選手が眼前を通過するその際、空気を掻き分ける音がはっきりとわかる。まばらで高齢な客たちだが、スタンドはホーム前以外は閉鎖しているため密度はそれなり。レース毎にワイヤワイヤとあること無いことを喋るとこれでけっこう賑やかである。「ちきしょー、8番だよ」などと、悔しがりながら一人の青年が明るい顔で歩いて行く。常連だろう人が、やはりそれに声をかける。彼らにとっては、いつものことなのだろうと思う。
食堂も値段は良心的だし、フワ串などは生姜が効いていてまったく臭みがないのが嬉しい。休憩所を改装したらしき「競輪大学」内には千葉支部が誇る栄光の歴史が並べられ、その隅で営業する食堂「ひまわりカフェ」では手作り感のあるつまみが楽しめる。「おいちょっと、お姉さん方。水割りを1パイ」と声がかかると、中にいた婦人4名が一斉に応えたのには笑ってしまった。今は記念くらいしか開かないようだが、本格インド料理とカレーを楽しめる店もある。まあ、外の売店でビールを頼むと、待ってましたとスーパードライの缶を開け始めるのは、できれば見えないところでやって欲しいが。
さて、そんな愛すべき千葉競輪場だが、施設の老朽化もあってもう何年も前から閉場の話がでていた。ところが先日の報道によれば、250mの国際規格バンクとして再整備する方向とのこと。ひとまず完全消滅は避けられそうである。今の競輪場内の明るく呆けたような雰囲気が変わってしまうのか、それとも皮だけ新装してあんがい中身は古い熟酒のままなのか。様々な立場があることと思うが、いずれにせよ私はこの競輪場を大事にしよう。
なにより、今の私が見た千葉競輪場に、あの日のホームレスはもういない。
(2017.7.30)
(2017.7.30)
ひまわりカフェ「特製醤油ラーメン」400円(2017.7.30)
- 作者: スティーヴン・J.グールド,Stephen Jay Gould,鈴木善次,森脇靖子
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